過去俺

8/16 カンフーサイボーグを観る。いやはやトランスフォーマーのパクリと思いきや、全然そんなことはなかった。ギャグと恋愛ものでした。なんというか、子供の頃のコミックボンボンの読み切りを観ているような感じ。SDガンダムのOVAを観ているような感じ。懐かしいというか、拙いというか。シーンとしてつながってなかったり、世界観の理解が足りないまま進んでいっちゃうのとか、ちゃんとした出来ではないと思う。キャラクターの設定として矛盾した行動も多かったし、ちゃんと組み立てていっているようには思えませんでした。ツッコミどころばっかりあったし。でもね、なんかいいんです。何かが。ひょっとしたらアマチュア臭なのかもしれないけど、妙な満足感があるんです。

 アイディアはあらゆる所からパクってるのがモロバレだし、それらがチグハグに本筋に絡まってるのは痛々しいんだけども、そのアイディア元の映画に引っぱられていないのがとてもいい。「〜らしいものを作れば売れる」とかではなくて、自分達の作りたい形に持っていこうとしてるのが良い。

 最近観ていた「B級映画」といわれる類いのものは、もれなく「〜らしいものを作れば売れる」という考えがどこか見えてみた。もちろんその「ネタ」自体を売りにしている映画はゴマンとあるわけだけど、そういうのは論外。

 アイディアに振り回されるというのは、拙いながらも大学生時に描いたりしていた漫画や課題などでも多くあった。既にできているものを、それと同じ目的で真似するのも大変に神経を消耗するのも分かっているが、それはどこまでコピーできても本家がある限りどうにもならないものになってしまう。だからアイディアが大事にされるのだと考えている。

 「〜らしいもの」というのは、誰かが既にやっているのでとても安心感がある。自分なりに上手く御しきれなくなったら、完全に真似してしまえば良い。それは一定の人気を得るから。

 元々あったものを自分なりに扱えるようになるまでは、とても時間がかかる。でも、ちぐはぐでも自分のやりたいことを伝えるほうが、よっぽど上等だ。だから拙くてもチグハグでも、出すことが大事なんだ。「カンフーサイボーグ」でそんなことを思った。

 

 

8/17 今日はまたもや友人と遊んだ。良い。とても良い。ひとりぼっちではないことを証明してくれる存在があるのは嬉しい。家族も大切だが、友人はまた格別のものがある。彼らがいるから、私もいることができる。彼らがいるから、やろうと思えることがある。私は幸運だ。ありがたい。

 

 

8/20 18、19日は、ぐだぐだになりつつも一応提出できた。今日は二次創作スレッドをやっと見終わったわけだ。

 ずっと見ていた二次創作スレッドで色々と思うことがあった。物語自体とは直接関係はしていないけど、世界の捉え方というのを考えた。自分の生きている世界はどんなものなのか。前も同じようなことを書いた気がするけど、俺の生きている世界はなんなのだろうね。物質として妄想するのも楽しいし、観念として妄想するのも楽しい。

 妄想として考えることを書くと、普段目を覚ましていても、俺の目玉と心はひどく鈍いのだと思う。目の前にあるもの、触っているもの、聞こえるものに対して、どういったものか分析していない。それは分析するのに相応の時間を取り、それらを多数くり返すことによって、自然に生活できなくなるからではないか、と考える。自然に、というのは周りとの円滑な関係を崩さないように合わせること。相手の機嫌を崩さず、顔色を見て反応すること(最近、昔から自分のやってきたことはこれだった様に思う)。そうする理由は、相手との好意的な関係を持つことで、自分の活動範囲に邪魔な物事を発生させないためではないか。

 支障をきたさないようにブレーキをかけるようになっているというか。内面から発した疑問を無視するのに長けてきたような気がする。昔からなんでも調べる癖があったか?と言われれば、それには「いいえ」と答える。他の人が読まないであろう本を読んだり作品を見たりと、興味のある振りをしてきたという方が正しい。小学生の時は、図書館にあるオカルトの本を読んでいた。中学生の時は図書館にあったウイスキーやビール、船の本などを読んだ。高校生の時は憶えていない。大学生の時は思い出す気力が今は無いのでパス。図書館にあった本。その一冊で満足していた。それが「なぜ?どうして?」とはならなかった。詳しく知りたければ、関連する書籍を探して読みあさるのが自然な反応の様に思える。俺は知ったかぶることの快感のみを憶えて、追求することの楽しみは無視していたのだ。追求するのは勉強すること。勉強するのはその間じっと座って我慢すること。だから私は我慢するのが嫌だったから、そこから先は忌避していた。

 ただ最近、先ほどの二次創作スレッドでも思ったのだが、そんな先入観というか考えがいつまでも通用するのはおかしいと感じるようになってきた。上の段落で飽きるだの何だの書いてあるけど、飽きたら止めればいいし、とにかく手当り次第に早くやれって話な訳だ。何か思ったり感じたりしたら、忘れないようにメモ。探せる環境だったら即探す。ただし、丁寧に、見ていくこと。

 五感に身体を預けること。そして材料は世界だ。自分を取りまく、物質から感覚から何から膨大なものに囲まれてるんだ。一つ一つ砕いていけ。文字でもいい、図でもいい、教科書から論文から手助けしてくれるものはたくさんある。そして自分にできることで形にするんだ。人に伝えるときもあるだろうし、自分で理解するためにも再現しよう。長い時間がかかる。たぶん生きれるであろうあと50年の間に、しこたま満足してそのぶんしこたま辛くなる。

 何の為に作るかは、まだ考えが及ばない。

 

 

8/21 コミティアに行ってきた。友人とのおしゃべり、再会、見知らぬ人との会話。実に美味しい思いをさせてもらった。出会いに感謝。

 さて、コミティアに行って感じたこと。またコミティアは商売の場でもあるが、コミュニケーションの場として機能させると実に面白いということだった。作品を出し、興味を持った人達がぱらぱらと見て、話をしてより理解を深めようとする、良質な空間だ。コミケでも感じたが、コミケの場合は人の量が多すぎて若干落ち着くことができない。何かを作りたい人、作った人達の会話は熱い。熱があり、それに当たりこちらも熱くなる。負けたくないというか、そんな気持ちになる。刺激的だ。

 本当に「祭り」という感覚になった。