過去俺

11/16 町田へ粘土の購入に行った。やはり世界堂が使いやすい。

 帰りに海老名で母と待ち合わせをしていたのだが、暇をつぶすために新星堂に寄ろうとした。するとどこからともなく三味線の音色が聞こえてきて、「新星堂もこんなのを流すんだなぁ」と思っていたら、眼下に演奏している人がいるのに気づいた。新星堂はぶれずにポップスを流していた。

 その三味線の音色は実に良いものだった。今まで私が聞いてきた音は全て、CDやテレビ、もしくは祖母の所持している民謡のテープから得たもので、三味線のイメージは「昔からあるガチャガチャとうるさいところが面白いもの」位の印象しかなかった。もっと前に実際に聞いていれば、また印象は違っていたのかもしれないが、そんな程度だった。

 だが今日耳に入ってきた音は何もかもが違っていた。うるさくない。飾っていない。染み入ってくる。強くバチで弾く為に大変派手な音が出るものという印象があったが、今日聞いたものは実に上品だった。耳に刺さるような荒っぽく未消化な音ではなく、強い音なのに丸みがあり、ふわっと軽く押してくるような響きで、滑らかに入り込んでくるような音だった。演奏には緊張感が漂っているが、それが聞く方には不快でなくむしろ安心感を与えるような佇まいだった。また、残心というか、曲に対しての自分の想いなどを感じさせるような挙動は無く、ただただ演奏にのみ気を張っている姿に息を飲んだ。演奏にのみ気を配っていると言っても、なんと言うのか、近寄りがたい空気が無い。おごる部分、誇ってしまう部分など、そういった自意識を感じさせなかった。その姿が実に自然体で。本当に演奏と一体になっているように感じた。そう、演奏と一緒になっていたのが驚きで、感動して、もう言葉が出せない。曲目を説明したりせずに、終われば次の曲を演奏していたので何を演奏しているかはさっぱりわからなかったが、とても居心地の良い曲ばかりだった。激しい曲調のものもあれば、ゆるやかなものもあり、どれを聞いていても飽きなかった。かなり年配の人が演奏している人の近くに座った時に、足でリズムを取ったりもしていた。

 母と会う時間が近づいたので、素晴らしい時間を過ごさせてもらった分しっかりとお金を払い、感動した旨を簡潔に伝え、帰った。ついでにいうと、その人はCDなどをその場で売っているわけではなかった。新聞の広告を広げてその上に座り、パジャマまではいかないまでもラフな格好で、三味線をケースに入れて運んできたようだった。俺以外にはそんなにお金を払っている人はいなかった。免許証入れのようなものに身分証明書みたいなものが入っていたがよく分からなかった。だが免許証ではなかったし、大分色もあせていたので、おそらく三味線の協会かなにかの身分証だと思う。

 今日本当の「芸」というものを見た。演奏と一体になる。作品と一体になるという美しさ。そしてそれにかける凄み。技に溺れず、自分に溺れず、かといって自分を殺さず、上手に聞かせるのためではなく、気持良く聞かせる為でもなく、ただ演奏をする。心も残さず、だけど殺さず。あるがままをあるように。太陽が昇り沈むように、それ自体に何の違和感も感じられないくらい自然。あたり前の様にそこに在った。

 あまりにも深遠すぎて、まったく想像出来ない。あの瞬間から今まで、俺はとてつもない存在に出会ってしまっている。まったく見当もつかない。素晴らしい体験をした。

 

 

11/17 会社に履歴書の類いを送る為に、成績証明書を申請しに大学へ行った。すると久々に友達にあった。ほんの少ししか話さなかったが、何だか以前に会った時よりも活力を感じた。

 会社を調べて、履歴書と作品送って、作品集に手を入れては悩んで、また調べて送るをくり返しているなぁ。同じ考えというか、ゴールが「就職」になってしまっているので、余裕があまり感じられない。受験のときと一緒なのは分かるんだけど、どうやって解放しようかね。なんだかんだ暇な時にこうしたら楽になりそうとか思った事を、なかなか思い出せない。なんか無理をせず、その状況を忘れるように気持ちをガッチリ入れ替える、とかそんな事を考えてた気がする。同時に、たぶん忘れようとしても気になって気になってしょうがないだろうから、他の方法は無いもんかとか考えていた気がする。なんか新しい刺激を受けられるような状況を無理やり作り出すようにするとか、考えてたかも。

 浪人時代はひたすら練習しかしてなくて、娯楽は少なくなっていく一方だったはず。今もそれに近づいてきていて、だんだん袋小路に入り込んでいってる感じ。「これから先こうなっちゃうとやばい」とか未来の事をあれこれと先に想像するから怖くなる。やばくなった事を考えて何もやらないより、失敗した方がよっぽどタメになる。生きていけないかも、とか、お金を稼ぐことができないかも、とか、正社員になれないかも、とか、些細な事だ。お金が稼げた方が、自分の好きな事が出来ると考えれば稼いだ方が良いけど。でも問題はそんなことではなく、どう生ききるかだ。心配は、様々な対処法や解決策を導く為に使えばよくて、ある程度どうしようもないことまで気にかける必要は無い。

 さぁさぁどうなるのだろうか。とりあえず、zoo団フィギュアを完成させるのが優先事項だな。

 そして唐突に、「遊びを真剣に楽しむ」という言葉の意味が分かった気がする。自分のやっている事が詰まり気味だからこそ、目一杯遊ぶんだな。あれこれと手を出したり、気持良さを追求するのか。

 

 

11/18 昨日眠れなかったので、大変ぐっすり眠れた結果11時に起きた。

 zoo団フィギュアの手入れ。主に胴体の作成。イメージが固まっていないキャラもいたが、とにかく早めに仕上げたいと思っていた為か形が浮かんできた。たまに急ぐと素晴らしい。角の盛り足しや、顔の微調整なども含めてやっていたが、削る時間を一緒に作れないのが口惜しい。疲れちゃって、そこまでいけないのもあるが、原因は起きる時間が遅い事。反省。でも作っているとつまらない事考えてる暇無いから、実に良い。よしよし。

 昨日の「遊びを真剣に」をやってみた。疲れたら、楽な姿勢で本を読む事。良いね。これで絵を描いたりにも気合いが入ればなお良いんだけど。