過去俺

12/25 今日はアルバイト先で知り合った方の家にお邪魔させて頂いた。お酒もご飯もごちそうになった上に、楽しく話をしあったおかげで楽しいものだった。プラモデルの話になっていったのだが、昔の、本当に単純な構造のプラモデルと現在の便利なプラモデルの比較などをしたところ、昔の方が改造しやすいという形に落ち着いていった。今現在積んでいるプラモデルでスサノオというガンプラがあるのだが、一向に進む気配がない。機構が複雑だから、パーツ数が多くてすぐに嫌になってしまうのだ。ノルマをクリアしていくような気分でやれば話は別だが、さっと改造したい気持ちが抑えられなくてすぐに頓挫してしまう。その点昔のプラモデルは非常に単純な構造なのですぐに終わる。すぐに改造までいける。その、すぐに自分の思うように改造したいという願いを叶えられるキットが、今は少ないのだ。まぁ、改造したいという要望を抑えれば、今のプラモデルの方が圧倒的にいいんだろうけど。

 

 

12/26 起きたのが12時過ぎ。銀行に行ってアルバイト料振込の確認をしてきた。どこか就職もしくはそれに近いような収入が無いとかなりきつくなる状況。

 それはそれとして、zoo団フィギュアの手入れ。若干の削りを入れて今日は終了。

 父が釣りに行って甘鯛と釣り上げてきて、それが夕飯になった。とても味が濃くて、今日釣ったものとは思えない。甘鯛を重宝する人の気持ちも納得。

 セビアン・グローバーという人がテレビで紹介されていた。タップダンスが本業らしいのだが、番組内の映像だけでも生命が溢れているような勢いを感じる人物だった。言葉も表現も振る舞いも、実に虚飾を排したもので大人物である事を納得させる。「タップダンスの第一人者と言われているが、そうではなく、僕はタップダンスの歴史があるからここにいられるのだ」という発言に、グッときた。自分一人ではなく、培われてきたものがあったから自分があるなんて。でも彼らの真似では無いという自信があふれている。その、自分を包む環境と、自己という二つを分けられているのがすごいと思える。

 真似と言われたら、もう私なら自身がその人物を知らなくても「真似は嫌だ」と思って、止めてしまう。似てるというのは、全く同一でなく、模倣をしたわけでもなく、単一としてみれば大変素晴らしい結晶なのだから止めなければいいのにも関わらず。真似と言われる事に対して、強烈な拒否反応があるのは、なんらかの出来事があったのだろうか。もはや呪いの様に真似にならない事を願っている。それが私の人格形成の元なのだろうか。

 セビアン・グローバーは自分と向き合うと言う事を重ねて言っていたが、自分にあった事をする、とよく耳に入ってきたものだがはてさて。

 自分と向き合うと言うのはどういったことなのだろう。自分のやりたい事を明確にするというのととても近い感じはしている。言葉が違うだけで、底の方にあるものや思惑は恐らく同じもの。それはたぶん、やる事を見つけた時に、簡単に納得しない事ではないかと思う。完成したから、心地良い疲労感が満ちてくるので、終わり。ではなくて、それも一環であって、また見直し、足りない部分が見えたら手直しをする、という繰り返しを延々と出来ることが、自分と向き合える人ではないかと思う。または、作って人に見せて、そこで出る意見に対して、一個一個消化出来る人か。どちらにせよ、未だそういったように形が出来ていない自分を、自分の状況を認めないとダメだ。

 

 

12/27 zoo団フィギュアの削りと盛り。あらかじめある程度形を出しておくのが大事だというのを、今更ながら実感。こればっかりは神経張りつめて数こなさなければどうにもならない。「削るのを2回くらいで終わらせられる方法はないものか」と本気で考えてくる始末。目指すはその領域だ。ただ以前に漫画を描こうと思った時に「一発描き出来るようにクロッキー頑張れば良いんじゃないか?」と思って実行したときは、失敗に終わっているので二の轍はふまないようにしないと。

 起きて食事とってすぐにお金に関しての確認をした。しんどい。自分に直に関わる事なのに猛烈に億劫。そして金銭的にもたせていくのは更にキツいと判断。そらぁ就職先探すわな。でもなぁ、責任とりたくないなぁ、と思ってまた沈んでいったり。そこでふと思ったのが、何が嫌なのかハッキリしていないということ。

 一体どんな事が嫌で就職する気力がないのか。叱責を受けることがひどく怖い。どんな叱責かによるのだけど、特に「馬鹿」だの「間抜け」だの言われるのは嫌だ。じゃぁ言われた事あるか?と思い返すと、そんな事はほとんどない。今まで言われて一番記憶に残ってる言葉は「返事だけは良いんだけどなぁ」だ。文字でなら大した事はないが、映像と一緒によみがえってくるといまだにおっかない。でも人格を否定されるような事はほとんど思い出せない。ので、怖がる必要無しだな。OK、OK、何の問題もない。全て俺の妄想空想だった。

 

 昨日風呂に入っているときも思ったんだが、妄想空想で行動が止まる事が本当に多い。しかもポジティブでなく、悲観的、否定的な妄想空想だ。被害妄想でもある。たしかにそういった面を持つ事で、危険を回避する準備ができたりして用意周到になれるかもしれないけど、自分のは度が過ぎている。やる前から、「ああなったらどうしよう」、「こうなったらやばい」とか考えるのはまだ良いとしても、「じゃぁどうしよう」までいかないのは怠慢だな。自分で解決しようとしていないからだ。まぁ、解決はできないから、他の人の意見を聞くわけだけど。その前にこうやったらどうだろうと、役に立たなくても言うくらいはしないと。失敗の経験が少なくてビビってるね。


 失敗とか失態とか、成功とか栄光とか、すっかりと忘れてしまえ。手を抜くとか高等テクニック出来ないから。世間体とか常識とか、気にする必要ないだろう。行動のほとんどは、そういった価値観によって縛られているけど。「たいていは」とか「ふつうは」とか、それ自体が俺に関係あるかって言ったら、そら少しは必要かもしれないけど、関係なくても大分上手くいくんじゃないか?

 怒られるのが怖いとか思っているけれど、何をもって怒られるということなのか想像してないだろう。何も言われない事が、何よりも恐ろしい事態なんだから。直接怒られた事なんて、数えるほどしかない。あとは全部、自分を含められた大きな集団全体に対して叱責の言葉があっただけだ。俺に向けられていたわけではない。じゃぁ、特にビビる必要はないんだよな。敬意は忘れないようにしないと。俺に声をかけてくれたり、応対してくれる人がいるというのは、本当に貴重で大切な事実なのだから。